2階建てのハイツの前で、タクシーが止まった。
「降りるぞ」
「うん……」
車内で二人は、外の景色を見つめ無言だった。
ルームミラーで二人を見ながら、運転手は「喧嘩中かな」そう思った。 タクシーから降りた大地は、階段で2階に上がり部屋の鍵を開けた。「入れよ」
大地の声に小さくうなずき、中に入る。部屋は10畳のワンルームだった。
最初に目についたのは、部屋の大半を占めているダブルのベッド。あとは衣服のケース、ラックとテレビ。整頓された小綺麗な部屋だった。「適当に座ってろ」
フローリングにクッションとテーブルを置き、大地はケトルの電源を入れた。
「コーヒーと紅茶、どっちが好きだ?」
「あ、うん……じゃあ紅茶で」
「分かった。ティーバッグしかないけど我慢してくれ」
そう言って海にカップを渡し、ベッドに腰を下ろした。
「……あったかい」
「ちょうど茶葉を切らしててな、そんなんで悪い。てか、寒いのか? 暖房入れるか?」
「ううん、そういう意味じゃなくてね。大地の気持ちがあったかくて、少しほっとしてるの」
「……そうか」
照れくさそうにそうつぶやき、額を掻く。
「それでどうだ? 少しは落ち着いたのか?」
「うん……ありがとう」
そう言ったまま、海は口をつぐんでうつむいた。
室内に重い空気が広がる。大地は立ち上がり、風呂場に向かった。「……大地?」
「今お湯をはるから、用意が出来たら入れ。今日はまあ……色々あった訳だし、お前も疲れただろ」
「お風呂なら、先に大地が」
「いいから先に入れ。あ、でもあれだぞ? 俺に気を使って湯船に入らない、なんてのはなしだからな。ちゃんと肩までつかって、しっかり体を暖めるんだ」
そう言って再びベッドに腰を下ろし、ゆっくりと背伸びした。
「……色々あったって言うなら、大地もでしょ」
「ん? ああそうだな。何しろ特急に飛び込もうとした時に腕をつかまれて、ここは私に譲れって見知らぬ女に詰め寄られて」
「そうじゃなくて……それもなんだけど、そうじゃなくて……頬、大丈夫なの?」
「ああこれな。殴られるのは慣れてるからな、大丈夫だ。心配すんな」
「心配……するわよ! 何よあんた、さっきから大丈夫大丈夫ってばっか言って! グーで殴られて、その後引っぱたかれて……大丈夫な訳がないじゃない!」
「まあ、慣れてるって言っても最近ご無沙汰だったしな、確かに少し痛かったよ。喧嘩なんてのも久し振りだったし」
「なんで? どうして私をかばったの? 私たち、ちゃんとお別れしたじゃない。それに大地、あの時泊めてって言ったら断ったくせに」
「正直なところ、俺にもよく分からん。なんでお前の後をつけたのか、俺が聞きたいくらいだ」
「だったら」
「ただ」
「……」
「別れる時のお前の顔が、妙に頭に焼き付いててな。お前、自殺に失敗した割には明るくて、初めは正直戸惑った。何なんだこいつ、こんな軽い気持ちで死ぬやつなんているか? そう思った。そんな適当なやつに俺は自殺を邪魔されたのか? そう思って苛ついた。
でもな、お前が死にたい理由を話している時、少しだけ本音が見れた気がしたんだ。そしてさっきまでの無駄に明るい言動、それが強がりなんだと感じた。 まあ、人間ってやつは矛盾をごちゃまぜにした生き物だからな、全部お前だって言ったらそうなんだろう。ただ少なくとも、今の本当は俺に『寂しい』と言った時のお前、そう思ったんだ。だから気になってな、後をつけたんだ」「……」
「そうしたらお前、本当に見知らぬ男に声をかけていやがった。誘ってやがった。それは別にいい。お前も立派な大人なんだし、自分がしたいと思うことをすればいい。でもな、あの男に触れられて笑ってるお前の顔、あれは嘘の顔だった。心が死んだやつの笑顔だった。だから止めた。声をかけた」
「……なんで……なんで今日会ったばかりの人に、そんなこと言われなくちゃいけないのよ……なんであんたの方が、私のことを分かってるのよ……」
「そんなもん、見れば分かるだろ。お前、今まで人間観察してこなかったのかよ」
「何よそれ……」
そう言ってクッションに顔を埋め、肩を震わせた。
「ちなみにそのクッション、座布団用に出したやつだ。いつもは俺が尻に敷いてる」
「……馬鹿……」
「ほら、風呂の用意が出来たぞ。泣くなら風呂場で泣いてこい」
そう言ってカップを取り上げ、海の手を取った。
海は小さくうなずいて立ち上がり、風呂場に向かった。「着替え、用意しておくから」
そう伝えると、中からシャワーの音がした。そして同時に、海の嗚咽が聞こえてきた。
大地は頭を掻き、「泣け泣け。全部吐きだせ」そうつぶやいた。 * * *風呂上がり。海は大地のジャージを着ていた。
「ぶかぶか……」
「男物だからな、我慢してくれ」
「というか大地、随分大きいけど、身長いくつなの?」
「俺か? 180ちょっとだ」
「そうなんだ……」
「だからまあ、ぶかぶかな服しかなくて悪い。何なら明日、着替えとか買ってこいよ」
「着替えって、明日も泊まっていいの?」
「いいの、じゃなくてさ。そうしないとお前、またさっきみたいに男に声をかけるんだろ? あんな現場見ちまったら、泊めるしかないだろ」
「なんで……どうしてそこまでしてくれるのよ」
「お前には大切な男がいた。その男が死んで、辛くて寂しくて死のうと思った。そうだな?」
「うん、そう……」
「だったら自分を大事にしろよ。見ず知らずの男に体を売って、自分を穢すようなことはするな。それはお前の彼氏に対する侮辱だぞ」
「……」
「それにお前、まだ死ぬつもりだろ?」
「……そうだけど」
「今日は失敗した。折角の覚悟が台無しになった、そう言ったよな」
「うん……」
「だったら覚悟が決まるまで、ここにいていいよ。俺も本意ではないといえ、お前と関わっちまったんだ。最後まで面倒みるよ」
「でも……それだと大地、私が死ぬまで死ねないじゃない」
「俺の中で死ぬことは決まってる。別に焦らなくても、お前が死ぬまでぐらいなら待ってやるよ。それにお前、俺が先に死んだら困るだろ?」
「……」
「と言う訳で、今日はお互い散々な一日だった訳だ。そろそろ寝よう。海はベッド使っていいぞ。俺は床で寝るから」
「そんな、いいよ。大地がベッド使ってよ」
「女は男の見栄を尊重するんだろ? 女を床に寝かす男なんて、聞いたことがない」
「そうなんだけど、それもなんだけど……お願い、聞いてほしいの」
「なんだ、言ってみろ。無茶な要求でなきゃ聞いてやる」
「その……一緒に寝てほしいの」
「はいアウト!」
「そうじゃなくて」
「そうも何もない。それをしたらあの男と一緒じゃねえか。俺がここに泊める意味がなくなっちまう」
「何もその……抱いてほしいだなんて言ってないの。ただその……温もりが欲しいって言うか……とにかく私、寂しいのは嫌なの」
「死んだ男の代わりって訳か」
「……」
「分かったよ」
「え……」
「この問答、どれだけ続けてもお互い納得する結論は出そうにない。だったら俺が折れるしかないだろ」
「いいの?」
「ああ、添い寝ぐらい別にいいよ。でもな、変なところ触ってくるなよ。俺も男だし、あんまり誘われたら襲ってしまうかもしれないからな」
「分かった……ありがとう、約束する」
「じゃあ寝るか」
一緒に布団にもぐり、電気を消す。大地は海に背を向けた。
「……背中……触ってもいい?」
「……ああ」
その言葉に安堵し、海が大地の背中を抱きしめた。
「……まあ……これぐらいなら許してやる」
「ありがとう、大地……」
大地の鼓動が聞こえる。
海の目から、涙が溢れてきた。 張りつめていた糸が切れたように、感情がたかぶっていく。「……」
大地の背中が涙で濡れる。
大地は振り返ることなく、海に囁いた。「体温ぐらいなら分けてやる。好きなだけ泣け。それから……ゆっくり寝ろ」
一年後。 青空〈そら〉の誕生日であり、一周忌にあたる1月19日。 有料老人ホームがオープンした。 施設長は浩正〈ひろまさ〉、大地は管理者。 海は喫茶「とまりぎ」の責任者として、従事することになった。 * * * この日は運動場を開放し、オープンを祝うたくさんの客が訪れていた。「おめでとう、浩正くん」 車椅子の下川が微笑む。「ありがとうございます。何とか無事、オープンすることが出来ました」「青空〈そら〉ちゃんもきっと、天国で喜んでるわ」「そうですね。でもね、下川さん。天国は勿論ですが、ここにも青空〈そら〉さんはいますからね」 そう言って入口に掲げられた看板を指差す。「そうね、そうだったわね」 有料老人ホーム青空〈そら〉。 それがこの施設の名前だった。「浩正さん、利用者さん一名、到着されました」 そう言って大地が門まで走り、車を誘導する。「すいません大地くん、お願いします」「任せてください」 大地が笑顔で答え、車から降りてきた利用者に手を差し出す。「ありがとう。随分賑やかね」「ようこそ青空〈そら〉へ。歓迎します」 海は運動場を走り回り、スタッフたちと接客に当たっていた。「海ちゃん、本当におめでとう」「ありがとうございます。山田さんも、今日はゆっくりしていってくださいね」「海ちゃん、本当にしっかりしてきたわね。これなら新人さんたちも安心ね」「あはははっ、私、最初の頃はおっかなびっくりでしたからね」「でもここを任されてからの海ちゃん、本当に見違えちゃって。格好いいわよ」「あはははははっ、そんなに褒めても何も出ませんよー。あ、でも紅白饅頭はありますから。後で召し上がってくださいね」 そう言って後輩スタッ
買い物から帰ってきた海が、呆然と大地を見つめる。「何……してるの……」 大地は台所で料理をしていた。「おかえり、海」 そう言って振り返った大地を見て、海の目に涙が溢れた。「どうしたどうした。泣くほど寒かったのか? 早く入ってあったまれよ」 海の元に進み、そっと抱きしめる。「そろそろ俺の料理が恋しいんじゃないかと思ってな。久し振りに作ってみた」「大地……」「いっぱい迷惑かけたな。ごめん」「もう……大丈夫なの?」「ああ、大丈夫だ」「……終わったの?」「ちょっとばかり強引だったけどな。何とかなったと思う」「……」「海?」「もう……死にたいって思ってない?」「思ってないというか、死ぬのが惜しいと思った」「……」「死んだら海のこと、こうして抱けないからな」「馬鹿……」「それに……これからだろ? 俺たちの人生は」「大地……」「とにかく手を洗って座ってろよ。全部ちゃんと話すから」 そう言うと海は肩を震わせ、大地を抱きしめた。「うわあああああっ!」 大地は微笑み、囁いた。「愛してるよ、海」 大地の目にも、涙が光っていた。 * * *「そんなことしたんだ、あはははははっ」 風呂から上がり、肩を並べて座り。 ビールを手に、海が笑い転げた。「……そこ、笑うところか?」
カーテンを開け。 煙草をくわえ、火をつける。「……」 大地は混乱していた。 海に促されて始めた自己問答。それが思いもよらぬ方向に進んでいた。 人を信じない。誰とも関わらない。それが自分の哲学だった。 それなのに今。実はそれを渇望していたという結論に辿り着いてしまった。 それは大地にとって、驚愕の事実だった。 本当は俺、人と関わりたかったのか? そう思い、眉間に皺を寄せ。白い息を吐く。 そして思った。 自分にとって、深く関わりたいと思えた他人。 青空〈そら〉。浩正〈ひろまさ〉。 そして海。 青空〈そら〉は死んだ。二度と関わることが出来ない。 その絶望は自分にとって、死を選択するに十分なものだった。 浩正さん。 生まれて初めて、尊敬出来ると思えた他人。 思慮深く、人の痛みに理解を示し、手を差し伸べる聖人のような男。 姉を愛し、共に生きることを誓ってくれた人。 だけど俺は彼に対して、いつも心を閉ざしていた。 もし、この人にまで裏切られてしまったら。二度と立ち直れないと恐れたからだ。 * * * 海。 星川海。 こいつと出会ってまだ、数か月しか経っていない。 それなのにこいつのことを、ずっと昔から知っているように思っていた。 この世界に絶望している同志。 最初はそれだけだった。そう思っていた。 だが青空〈そら〉は言った。『あんた、そこまでお人好しだったっけ。いつものあんたなら、後をつけてまで助けるなんてこと、した?』 その言葉に動揺した。確かに俺らしくない、そう思った。 海がどうなろうと、それはあいつの選択だ。 何より海は俺と同じく、近い内に死のうとしてるやつだ。そんなやつがどうなろうと、自分には関係ないはずだっ
俺が生きる意味。死ぬ意味。 それはなんだ? * * * 海は言った。俺の根底にはいつも、絶望があると。 その意味を読み解いた時、何かが変わると。 面白いやつだ。 そんな発想、思いつきもしなかった。 これまでずっと、死を渇望しながら生きてきた。 どうしてだ? 毎日飯は食えるし、欲しいものを買う余裕だってある。 自分の時間もあるし、仕事だってそれなりに楽しい。 煩わしい人間関係も持ってないし、特にストレスを感じることもないはずだ。 それなのに。 どうして俺は死を願ってたんだ? * * * 青空姉〈そらねえ〉が死んだ。 俺にとって唯一とも言える、この世界の光。 それが失われ、俺は絶望した。 ある意味壊れた。だから死を実行しようとした。 だが海は言った。 本当にそれだけなのかと。 確かに俺は今まで、青空姉〈そらねえ〉が生きていたにも関わらず、ずっと死を考えていた。望んでいた。 いや。 海に言わせれば呪いか。 青空姉〈そらねえ〉が死んだことで、その思いが強くなったのは確かだ。 しかし俺はそれ以前から、ずっと前から死にたいと思っていた。 それは何故だ? * * * 親父が憎かった。 俺が逆らえない弱い存在と分かった上で、自分のストレスをぶつけてきたあのクズが憎かった。 母親が憎かった。 いつも俺を罵倒し、心を殺してきた悪魔が憎かった。 お前たちは親という立場にも関わらず、俺たちを育てるという最低限の仕事もせず、ただただ見下し、排除することを望んでいた。 そんなお前たちを、俺はただの一度も親だと思ったことはない。 お前たちのおかげで青空姉〈そらねえ〉は右目を失い、心に深い傷を負った。 お前たちがいなければ、俺た
次の日。 目覚めてからずっと、大地は泣いていた。 * * * 昨日、異様なテンションで喋り続けていた大地。 浩正〈ひろまさ〉の忠告を思い出し、海はずっと緊張していた。 夜、大地が眠りについた時。乗り切れたと安堵した。 青空〈そら〉さんが守ってくれた、そう信じ涙した。 それなのに。今日は打って変わり、泣き続けている。 この不安定な情緒こそ、今の大地なんだ。 丸裸になった彼の心。 まるで獣に睨まれ、怯えている小動物の様だ。 泣き続ける大地をそっと抱きしめ、海は囁いた。「どうして泣いてるの?」「分からない……自分のことなのに、分からない……」「そうなんだ……でもそれ、普通なんじゃない?」「そう……なのか?」「だってこれ、大地が言ってたことだもん」「俺、なんて言った?」「自分のことが分からない、他人の方が自分を分かってる。そんなの当たり前だって言ってた」「ははっ……そんなこと言ったのか、俺」「大地は今、何を考えてるの?」「それは……」「泣いてる理由が分からない、そう言ったよね。だから質問を変えてるの。今、何を考えてる?」「……怒らないか」「怒らない。約束する」「……死にたいんだ」「そっか……」 笑みを崩さず、海は抱きしめる手に力を込めた。「青空〈そら〉さんがいないから?」「だと……思う……」「寂しい?」「ああ、寂しい……」
それから数日が経ち。 禁断症状がかなり治まっているのを感じた。 短い時間ではあるが、夜も眠れるようになっている。 煙草の本数に気をつければ、頭痛も酷くならなかった。 少しずつ、食事も摂れるようになってきて。 肉体的にかなり楽になってきたと実感した。 しかし。 入れ代わるように、今度は心が蝕まれていった。 言い様のない不安。恐れ。 それらが全身にまとわりついていた。 * * * 体が震える。 ジャケットを出して羽織る。 しかし震えは治まらなかった。 なんなんだ、これは。 大の男が部屋で一人、何を震えてるんだ? 禁断症状の時とは違う、体が自分のものでないような感覚。 なんでこんなに寒いんだ? そう思いスマホを見ると、気温は20度になっていた。「はああっ? 壊れてんのか?」 しかしすぐに思い直した。 違う、壊れてるのは俺の自律神経だ。 そう言えば昨日、天気予報で5月並みの陽気になると言っていた。 そう思うと、急に暑く感じてきた。 慌ててジャケットを脱ぐ。シャツを脱ぐ。 全身に汗がへばりついていた。 大地はタオルで汗を拭い、新しいシャツに袖を通した。「……また……寒くなってきたな……」 再びジャケットを羽織り、苦笑する。 寒いんだか暑いんだか、よく分からん。 色々と……壊れてるんだな、俺。そう思った。 そして。 嫌な感覚を覚えた。 何かに監視されているような感覚。 視線を感じ、クローゼットを見つめた。「……」 何も起こらない。当たり前だ。 この家に住んでるのは俺と海。他に誰もいない。 海は今、買い物に出